後継者・幹部育成
みなさん。真実というのはたいていありふれたものなんだよ
弁護士:島田 直行 投稿日:2020.12.23
まったくブログを更新しておらず再登場の仕方に悩んでいた島田直行です。ごきげんよう。「今年はブログを書き連ねるぞ」と決意をした正月がもはや遠い過去に感じるとともに「やっぱりやらねば」という気持ちにもされる令和2年の年の瀬。みなさんいかがお過ごしでしょうか。もう半分壊れつつ書いているので自分でも何を書いているのかすらさっぱりわかりませんね。大丈夫です。
ブログを書きだして10年以上たちますかね。思えばずいぶんと書いてきましたよ。10年以上にわたりずっとご覧になっているコアなファンの方もいるのでありがたいことです。10年前なんて一日の閲覧者数が2名とかですから牧歌的でした。ある意味ではあの頃の自由な時代が懐かしいわけです。さりとて今とあまり書いている内容に違いもないです。たいてい実名でブログ書いている場合には、ブログをブランディングのひとつと位置付けるものでしょう。だからポジティブな記事が圧倒的に多い。僕もそういう投稿に憧れていろいろやってみましたよ。海の写真とかあげちゃったりして。でもね、わかったことがあるわけです。自分にはこういうの無理。「弁護士という仕事は自分にあっていない」「うわーん」とか連呼するような記事が続いてしまい。周囲からは「どんだけ本音ベースなんだ」と言われたものです。笑
すると意外と「こういう自然体のブログがいいです」みたいな奇特な人が増えてきました。「読んで元気になるようなものでもあるまいし」と思っていたら「みんな悩みながら生きているのがよくわかっていいんです」と。そうなのかと。僕のブログを定期的に読む人ってたぶんいろんなものを背負って疲れているのです。この社会って「とりあえず背負え。そして走れ」というのがあまりにも多い。運動が苦手だから走れないとなかなか言いづらい雰囲気なんでしょうね。息を切らしながら何を求めているのかもわからないままひたすら走り続ける。敗者のレッテルを貼られるのだけは避けなければならないという脅迫概念が忍び寄ってきます。そんなときに「もう無理。運動苦手だから先行って」と平然と言い放つ僕の存在はある意味で安心するのでしょうね。
自分で言うのも変ですが僕って「がさつ」です。「あーしんど」とか「そこそこででええよ」とか口癖のように言っています。アドバイスを求められてもあえて具体的なこと言わないんですよね。「好きすればいい」「ほっとけ、そんな人」「そんなことで悩んでも1円にもならん」「立派なことだけ言うなら誰でもできる」とかアドバイスではないですね。苦笑 でも僕に相談してくるかたは、自分で答え持っているものです。でも自分の中の答えを口に出すことって簡単ではないわけ。現状のバランスが壊れるのではないかとかいろいろ考えると言い出しきれない経験って誰でもあるでしょう。そういう心配があるのがわかるから「大丈夫。なんかあれば拾うよ」と言うだけで十分なんです。実際にはみんな自分でなんとかやっています。「島田に世話になったら後が怖い」という心理があるのでしょう。よく理解されて立派です。
僕は、年末にちょっとした知り合いを集めて質問に答える企画をしています。自由にお題をもらって無責任に意見を言うという大人の遊びです。今年はコロナなのでオンラインでした。質問のなかに「コロナで世の中が変わったといわれている。生活様式は変わったけどなにか自分のなかで変わったのかと言われると違和感がある。なぜでしょう」と。なかなかに哲学的な質問でしたので久しぶりにまじめに考えました。それについての回答。
僕らは、とかく真実というのは隠されていてなにかオリジナルな輝きを持っているような印象があります。「自分探し」という言葉なんて典型的ですね。真実を知ることは魅力的であって「自分だけが知っている」ということが優越感にもつながります。ここでは真実≒理想みたいになっているわけです。でもはっきりいいましょう。真実ってありふれたものです。なんのときめきもないものです。裁判になるような事件にしても複雑怪奇なものってめったにないです。「どこにでもありそうなトラブル」が肥大化して事件になっているケースが圧倒的に多いわけです。シャーロック・ホームズのような推理力を要するような事件ばかりであったら世界は狂乱のなかにあります。みんながみんなを疑うデストピアでしょうな。
人生にしても然り。輝きのある人生を求めるのは結構ですけどありふれた人生だって悪いものではありません。そもそも「ありふれた」日常を維持することがいかに大変なのかはコロナ禍で誰しも身をもって理解できたでしょう。そういうものなんですよ。「ありふれた」とは何の努力もなく成り立っているのではありません。無限の努力と協力のもとに「今日というありふれた日」があります。そのいみでは「ありふれる」とは「貴重」と同義なんだと思います。つまるところ周囲が変わるなかで自分の意識が変わらないことなんて素晴らしいことです。自分の意識を維持することができるだけのレジリエンスと環境を整えているのですから。自信を持つべきことであって不安がるべきことではないでしょう。
僕らは、とかく誰かと比較しながら自分の輪郭を描きだそうとしてしまいます。それはキャンバスの中の自分であって体温のある自分ではない。キャンパスのなかの自分は自由に修正できるけど生身の自分はそうはいかないでしょう。でも僕は、キャンパスのなかの完璧な人物よりも、皺もでているような生身の人間にこそ魅力を感じます。だって楽しいから。
なんだかとりとめのないブログになりました。簡単に言えば現状肯定でいきましょう。では仕事に戻らないと。涙
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