後継者・幹部育成
「もわん」とした文章。繰り返し読んでも「もわん」。そしてわーん。。
弁護士:島田 直行 投稿日:2020.10.29
文章には、その人のすべてが表現されてしまう。本人の意図とはかかわりなく。その人の性格から理解度まで。だからこそ文章にこだわりたいのだがなかなかどうしてうまくいかない。自分の考えを表現するということはかくも難しいことなのかとつくづく感じる日々だ。文章を生業にする仕事だからさまざまな人の文章に触れる。一読しただけで「この弁護士はすごい」となんとなくわかるものだ。論理的で無駄がない。とくに無駄がないというところにキャリアを感じさせる。とかく「これも書いておかないと不安だ」症候群に襲われる。結果的にあれもこれもと書いてしまって気が付けば何を強調したいのかわからないという失敗は珍しくない。それでは争点がぼやけてしまってなかなか勝てない。「ここは争点としてあきらめる。勝てる場所で勝つ」と割り切って文章をそぎ落とせるのは、戦略でありキャリアだと思う。なんでも長く書けばいいというものでない。むしろ長いからこそ意味わからないということもある。
文章といえば「もわん」としたものを目にすることが珍しくない。「もわん」とは表現としては立派なんだけど冷静になると何を言っているのわからないというものだ。具体性に欠ける文章と言えばわかりやすいかもしれない。表現は立派なので一読すると「なんとなくわかった」ような気にさせるところが怖い。結局のところ抽象的なことしか書けないのは理解していないだけだ。理解していないことを隠ぺいするためにどうしても否定できないあたり触りのない表現を集めてしまう。せっかく集めたのだからうまい表現にしようとして美辞麗句ということになるのであろう。とかくは人は、抽象的>具体的みたいな誤解をしている。帰納法的に具体的な事情から一般理論を導きだすことからすれば、抽象性が具体性に勝るようなイメージを与えるかもしれない。でも本来そこに優劣関係などないはず。少なくとも日常の仕事で要するのは具体的な結論を導きだすものでなければならない。「する。しない」「加える。加えない」など明確な指針が必要なわけで抽象的な意見が欲しいわけではない。「もわん」とした文章はつまるところ自信のなさの裏返しなんだろう。
こういった抽象的な文章は基本的に読まない。読む時間がもったいない。それでも読まざるを得ないというケースもある。それが大人の事情というものだ。周囲からみれば「空気を読まない人。それが島田直行」と呼ばれているかもしれにないが、それでも最低限のマナーは守ろうと努力している。正確には、自分なりの努力はしている。一読すれば「これって一般の人が読むと誤解するな」と感じることが多々ある。書いてあることはご立派なんだけどひとつも結論がない。よくあるのが選択肢だけが羅列してあって「それでどうなる」の部分がない。そこは自分で判断してというなら、その旨を書いてくれればいいのだが。声だけあげて行動力のない人ってたまに目にする。こういうタイプの方は、こういった「もわん」とした文章を多用する。多用するしてたいてい自分に酔ってしまう。「自分なんかできる人」みたいになってしまう。これに付き合わないといけない人は本当に大変だろう。僕の場合には、「そうか、すごいな。さらば」といって立ち去るけど。
読まざるを得ない場合には、とりあえずなんども読み返す。「これってどういう意味ですか」とはなかなか言いにくいときもある。そもそも質問しても書いた本人がよく理解していないのだから明確な答えが返ってこない。結局のところ自分なりの解釈で相手の「おそらく言いたいことであろう」ことを推測するしかない。これは想像よりもつらいもの。「もわん」とした文章は、何度読んでも「もわん」のままだ。
とくに弁護士として反論文章を書かなければならないときにはつらい。相手の言いいたいことがわからないのに反論することになるわけで。「自分は一体なにに反論しているのだろう」という言いようのない不安に近いものに襲われてしまう。そしてもう泣きそうになるわけだ。やはり文章は「明確」でないといけないとつくづく感じる。よく「自分には読解力がない」と謙遜される人がいるが実際には書き手に責任がある場合が多い。「こんな論理では誰でもわからないでしょう」とつっこみたくなる。なんとなく論理をごまかしている文章って多過ぎ。
明確でエッジの効いた文章を模索する旅は続くのであった。
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