後継者・幹部育成
書き連ねてこそわかる世界もある。まずは書くこと
弁護士:島田 直行 投稿日:2020.10.30
今月号の下関の商工会議所だよりが手元に届く。この冊子にはエッセイ「緑峰庵草紙」を連載させてもらっている。もう7年くらいにはなるのではないかな。自分でもよく覚えていないけど。もともとは「法律を」ということだったが今では自由に書かせてもらっている。読んだ人はわかるがまったく法律と関係のない個人的な意見ばかりだ。簡単に言えばネタに尽きて好きなこと書き始めたというもの。関係者の皆さんごめんなさい。
でも僕のエッセイを「楽しみにしています」という声をよくいただく。たいはんはお世辞だろうけどやはり褒められるとうれしいものだ。あらかじめ大事なことだから言っておくけど「褒められて伸びるタイプ」ですから。もう一度言います「褒められて伸びるタイプ」ですからね。いいですね。冗談はさておきエッセイのなかでは「普段」というものを大切にしている。大上段に「正義とは」みたいなことを言ってもたいていの人には伝わらない。そもそも言葉には大きさというものがある。いきなり大きなことを言ってもいっときの高揚感を与えることはできても本質的には伝わらない。何かを伝えるときには、その人にあったサイズで伝える必要がある。サイズがぴたりとあえば、「しみじみ」「じわじわ」伝わるものだ。華やかさはないけど「そうだよな」という共感を生みだす。僕が「普段」にこだわるのも共感を広げたいからだ。
読者のなかには「よくあれだけのペースで書けますね」と言ってくださる方もいる。よく書くことはセンスのように誤解されている人がいるが違う。これはひとつの技術でしかない。練習すれば誰にでもできるものだろう。もちろんレベルを求めれば簡単ではないだろうがとりあえず「読んでもらえるレベル」のものであれば可能だ。みなさんも読書感想文で辛い経験をしたかもしれない。そういうときって〇〇文字を埋めないといけないという脅迫概念が先行するので筆が重くなってしまうのだろう。誰しも何かを1冊の本を読めば数え切れないほどの感情なりを抱く。「つまらない。途中で飽きた」というのも立派な感想のひとつだ。そういうときに「つまらない」で終わっていたらせっかくの機会としてもったいない。感想を深めるためには、「なぜつまらないのか」と自問するといい。実際にはこういった自問するというプロセスが文章を書くうえで大事になる。「この感情はどういうものか」「なぜこういう気持ちになったのか」など自分の今について疑問を抱いてみる。そうすると「書くべきこと」が自ずとわいてくる。
僕らは、「悲しい」「うれしい」という単純な言葉で自分の感情を表現して限界を与えてしまう。本来であれば人間の感情は無限の豊かさをもっている。それに記号としての言葉を割り付けることで「その感情」をより深く知ろうとすることから逃げている。言葉があなたの心を制約しているようなものだ。言葉の制約を外して、生身の感情を深く考え、そして再び言葉で表現する。これが何かを書くということではないかと。そしてこういったプロセスはとにかく「書く」ということでしかうまくいかない。いくら頭の中でぐるぐる考えてもまとまるものではない。
僕自身の経験からしてもエッセイを書き始めたころは本当に大変だった。ネタもないし。それでもひとりひとり読者の方が増えていくと自信になっていく。また書き連ねていくことで「自分の考え」を始めて客観的に知ることができる。そこにあるのはものすごく矛盾を抱えた自分だ。書いているたびに言っていることが違う。笑 一見すれば場当たり的に考えて適当に書いているように見えるだろう。自分でもそう感じる。でも人間って論理一本で理解できるほど単純なものではない。時と場合によって矛盾するような発言や態度を取ることだってあるわけで。それがむしろ自然であり人間的な魅力であろう。完璧な人なんて付き合いにくくて仕方ない。
というわけで自信をもって何かを書き連ねてみよう。ほんの一言の日記でもいいから。そこには自分がある。
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